時忠と義経の関係

文治元年(1185)、壇ノ浦で義経軍に敗れた平家軍。このとき「平清盛」の義弟・大納言「平時忠」は長門国で義経に捕らわれるが、入洛後に娘「蕨姫」を義経の嫁として押収された機密文書を取り戻すことに成功し、都に留まり朝廷への出入りも許されていた。その後、時忠は能登配流と決まり、9月末ごろ都を出発し現在の珠洲市大谷に到着、仮小屋を建てて住んだという。

義経逃亡の経路

この直後の11月、源頼朝は義経追討を開始する。 義経は都落ちし約1年の間吉野山、興福寺、比叡山潜伏の後、文治3年2月ごろに奥州・藤原秀衡を頼り逃亡を開始、約半年かけて奥州へ到着する。 この間山伏に変装し、北陸を通過したといわれているが、そのルートは諸説あり明確でない。 以下に代表的な三説を示す。

これまではこの内の一説を推す立場が主流であるが、後述のように三説をつないで一説としてみることも可能と思われる。 この場合には、能登を通過し大谷で時忠と再会した可能性が一段と高まる。

経路・三説

説1:[ 比叡山⇒近江⇒美濃⇒飛騨⇒・・・  当初計画で最短経路 ]

比叡山を出発するとき、藤原氏へ出迎えを依頼し奥美濃で落ち合う約束をしたが、途中(大津?)でこの経路を断念、北陸へ迂回を開始する。出迎えの使者は落ち合うことができず、そのまま奥美濃(石徹白)に住み着いたという。

説2:[⇒大津⇒今津⇒敦賀⇒勝山⇒加賀・篠原⇒安宅(勧進帳)⇒根上・辰口⇒鶴来⇒野々市・富樫館⇒大野湊⇒津幡・竹橋⇒倶利伽羅⇒越中・伏木(如意の渡)⇒]

この説は、最も詳細に地名が並んでおり経路としては真実味がある反面、伝承・逸話が文学芸能的脚色が濃いとも指摘されている。

説3:[⇒大野湊⇒倶利伽羅を迂回・能登へ経路変更⇒羽咋・押水⇒富来⇒能登外浦沿岸を北上⇒輪島・白崎(船隠し)⇒珠洲・大谷(時忠と再会)⇒須須神社⇒珠洲・三崎⇒伏木⇒]

能登経路(説3)

文字化されたものが無い反面、伝承・逸話の密度が高い経路である。更に、時忠に面会という目的を重視する向きもある。 更に説2とつないで一説とすることも可能である。つまり、倶利伽羅での検問が厳しく突破を断念、能登へ迂回(あるいは道に迷った結果)という筋書きとなる。加賀で拘束寸前(あるいは一時拘束されたが逃亡)となり、山伏姿の手配書も行きわたり、大変危険な状況であったと推測される。 戦術的天才と言われた義経であるから、倶利伽羅へはおとり(ダミー)の山伏を向かわせたかも知れない。自らは小船で能登沿岸の岩穴を転々とたどっていき、陸にも偵察人を先発させて船を誘導させたのだろう。

さて、説3での当地の伝承として「白崎の隠し」、須須神社に義経が奉納したとされる「蝉折れの笛」が有力であるが、残念ながら時忠と面会の伝承は見当たらない。

しかし、まだ早春の日本海の荒海を渡る途中、気を許して上陸し一時留まる場所は時忠の配所しかあるまい。 蝉折れの笛も対平家戦の戦利品であるが、これを時忠の近くに残していったのも意図を感じる。 伝承では、一旦須須・三崎を出航し寺泊をめざすが、強風に吹き戻されたので再出航の際に須須神社に蝉折れの笛を奉納して航海の安全を祈願したとされる。 更に付け加えるなら、絶えず平家の怨霊に悩まされ、時忠から離れると吹き戻されたので、笛を時忠(のそば)へ返すつもりで奉納したとも言えよう。

どの説か?

頼朝側の追討・検問が厳しい中、義経一行は奥州に逃げ延びた。その間、義経とその協力者は目立たぬよう振る舞い、追討側は取り逃がしても報告せず、逃亡に関する情報は殆ど都には伝わらなかったであろう。 時がたってごく一部の断片的情報が都へ伝わり、それらをつなぎ合わせてさらに脚色してできた文学芸能(主に説2)は、かなり割り引いて見る必要がある。これに対して、説3は伝承密度も高く、「物」に関わる伝承も含まれていて、更に説2とつないで一つの説にしても自然な流れに見えることから、文学主体の説2と対等に扱うことができるものと考えられる。